「太陽と思っている人」と「太陽でなないと思っている人」が半数ずついるようです。
「 お天道さま 」 は、太陽に畏敬と親しみをこめて言う語です。 日輪。 特に神格化された太陽神として扱う場合に用いられます。
小さい頃に食べ物を残すと 「 お天道さま 」 に申し訳ないと言われたことがある人はたくさんいるかもしれません。
人の顔を見て、みんなはどうかなとみんなに合わせる。みんなで渡れば恐くない式で周囲を見るのです。
今はみんな便利で簡単でラクなほうが良い。損したくない。お金が大事で心をどこかに忘れてきてしまうのです。日本人は多くの人が「あの人がやっている」からいいだろうという考え方が根強くあります。比較をして少しでも優位にたつ方法を模索しています。
これまで、日本の教育の根底はお天道さま教育でした。道徳的な教育は人間形成に非常に大切なのです。人は迷いますからそんなとき、判断に迷ったとき、自分に都合のいい答えでなく 「 お天道さま 」が見ているという視点で考えるようにします。テストや偏差値で人間の価値を評価することも必要なのかもしれませんが、それが全てになってしまっては人間の心は育ちません。
お天道さまとは天道と書きます。例えば、昔の人は、お魚を食べるとき、このお魚もお天道さまのおかげと言って骨までしゃぶって、お茶につけて飲みました。無駄にしたらお天道さまに申しわけないという考え方です。
そうです。あの見える太陽の背後にあるもの、あの雲をつくり出しているその背後にある見えない偉大な力。つまり、人間の力のおよばない自然の力をお天道さまと言ったのです。
天とはあの青い空ではありません。あの空の背後にある力そのものです。天に恥じない心を大切にし、天に申しわけないと言ったのです。天とはそれです。
今は天と言えばあの青い空。地と言えば窒素、リン酸、カリウムの物質の土。土はいのちですがそれが見えないから、ああわかったわかったと、味もそっけもないのです。
こんな経験はありませんか?親に叱られた記憶です。友達が、お菓子をもっていて私に半分くれると言ったので、喜んで二人で木の根っ子に座って食べました。しかし、それはその子が親の財布から盗んだお金で買ったお菓子でした。それがばれて親に叱られた友達は、理由を聞かれたときに、私が食べたいと言ったからと答えたのです。
母は、私を叱りました。私が「もらったのだ」と言っても信じてくれなかったのです。一生懸命違うと言い張ると、「うそまで言うのか」と叱られ、子ども心にももうそれ以上説明のしようもなく、悲しくて泣きながら外に出て、じっと天を仰いで空を見ました。
そして「お天道さま、わかってるよね」と、涙をボロボロ流しました。「そうだ! お天道さまが見てる。わかってる。もういいや」と、心で受けとめて納得し、泣くのをやめました。また、何かのときに「うそを言う」と叱られたとき、「お母さんはいつもお天道さまが見てる、知ってるって言ったでしょう。
お母さんがわからなくてもいい、お天道さまが知ってるもの! 」とすごい勢いで言ったら、母がびっくりして「わかった」と言いました。これがお天道さま教育であり、よく言う「おかげさま」の心です。
おかげさま 相手の助力があったことを感謝する表現。 「おかげ」をさらに丁寧にした表現で、多く「おかげさまで」の形で用いる。 また、漠然と、身辺の状況が良いことについて感謝を表明する際にも言いますね。
今の学校教育でも、家庭教育でもこのお天道さま思想が失われ、「人間をこえた大きな力があるんだ」ということを子どもに教えません。そこに教育の限界があると私は思います。この大きな力を知るとき、枠も垣根もなく、広く深く生きられるようになるのです。それを先祖達は端的に伝え残してくれました。これは日本にしかない大変な遺産です。
テストでいい点をとる、地元の進学校に通う、お友達よりいい点をとるといった教育にはかならず後にしっぺ返しがまっているでしょう。そして子供達もその違和感に気づき始めているのです。
天知る、地知る、我知る、人知る なども似たような意味ですが、昔の方々の子育てには、きっと重要なポイントだったのでしょう。
道徳的なことを伝える生活の中での教えのような気がします。人として生まれて人の中で生きていく中で重要です。