現代人の腸と昔の人の腸

なんだかんだ言っても 肉食で進化してきた人間

なんだかんだ言っても 肉食で進化してきた人間 ですが肉食は、脳の発達に深く関与しており、人類は肉を食べるようになったことで進化し、ここまで文明を発展させてきた事実もあります。

理解しておきたいのは、人と遺伝子レベルでほとんど変わらない猿は 「 ベジタリアン 」 だったということです。

なんだかんだ言っても 肉食で進化してきた人間

なんだかんだ言っても 肉食で進化してきた人間

人類はオランウータンやゴリラやチンパンジーと共通の祖先から進化しました。動物進化の系統樹において、約1300 万年前にオランウータン、約650万年前にゴリラ、約490万年前にチンパンジーが人類から分岐したと考えられています。

人類の特徴は他の動物と比べて知能が高いことですが、知能の発達には脳が大きくなることが必須です。

チンパンジーの脳容積は 400 cc 程度で、現代人の成人男性の脳容積の平均は約 1350 ccです。チンパンジーと同程度の脳容積しかなかった初期人類から、高度の知能をもった現生人類に進化する過程で脳容積は 3 倍以上に増えました。チンパンジーの脳容積は 500 万年前と同じで、人類の脳容積が3倍も増えた理由は、人類が動物性食糧を多く摂取するようになったからです。

ヒトの脳が進化によって異常に大きくなった理由を巡る論争は、研究者の間で数十年間も続いているのですが、動物性食糧 を多食したこと以外は考えられないのです。

昔の日本人が発酵の力でパワーがみなぎっていたことを紹介しましたが、これは、肉食を始めたから日本人はダメになった!というわけではありません。

肉食をやめたほうが健康的だといった菜食主義の考え方もありますが、人という存在はそこまで単純ではありません。

肉食は、脳の発達に深く関与しており、人類は肉を食べるようになったことで進化し、ここまで文明を発展させてきた事実もあります。理解しておきたいのは、人と遺伝子レベルでほとんど変わらない猿は、「ベジタリアン」だったということです。

昆虫なども少しは食べますが、主食としていたのは果物や木の実で、人のようにほかの動物の肉を求めることはありません。この猿が、なぜ人ヘと進化したのか?

ほとんどのサル類は雑食性で葉、種子、新芽、果物、果汁、花の蜜、根菜類、昆虫、鳥の卵、鳥、小型の脊椎動物など様々なものを食べています。

定説では、およそ 700 万年前にアフリカの大地溝帯が地殻変動を起こし、この地に棲んでいた猿たちが森の暮らしを追われたことが一因とされています。これが人の誕生と、どうつながってくるのか?諸説がありますが、ここで重視したいのは森の暮らしを追われることでそれまでの食生活が大きく変化した点です。

過酷な環境下を生き延びるには、それまで食べていた果物や木の実以外のものも口にしなくてはなりません。そこで初めて「動物の肉」を食べることに意識が向くようになったということです。

肉を食べなければ死んでしまうので肉を食べたということです。おいしいから食べていたのではありません。

初期の人類は、野生動物の食べ残した屍肉をあさり、骨髄などから脂肪分を摂取していたと考えられています。脳の主成分は脂質ですから、こうした骨髄食が脳を少しずつ大きくしていったことは十分に考えられます。

初期の人類の脳の容量は、300~500ccとほとんどサルと同じですが、私たちの祖先にあたるホモ・サピエンスは、1300 ~ 1500 cc にまで肥大化させています。この大きくなった脳が人類の文明を生み出す原動力になったわけです。

ホモ・サピエンス(Homo sapiens、ラテン語で「賢い人間」の意味)は、現生人類が属する種の学名である。 ヒト属で現存する唯一の種。 種の下位の亜種の分類では現生人類をホモ・サピエンス・サピエンスとすることで、彼らの祖先だと主張されてきたホモ・サピエンス・イダルトゥと区別しています。

人は脳を大きく進化させ、知恵を発達させることで生き延び、今日にいたるまでに多種多様な文明、文化を築き上げてきました。肉食によって脳が大きくなって、いいことばかりだったわけではありません。自然界から見れば、この種の知恵は明らかに「過剰」なものだからです。

脳が肥大化して知恵が発達しすぎると、感情、本能、直観といった動物的な感覚よりも「思考」のほうが優先されるようになります。思考によって直観が鈍り、感情が増幅されることもあるでしょう。

たとえば、猫疑心、取り越し苦労、過度の不安などは、ほかの動物には見られないきわめて人間的なものです。動物的な感覚がベースになってはいますが、脳(思考)がこれを増幅させ、むしろ本来の感覚を遠ざけてしまっているわけです。

この傾向は、農耕や牧畜が始まり、定住社会が形成されていくにつれて顕著になります。定住化し、都市を作るということは、たんに集団生活を営むことにとどまらない側面があるからです。専門家は、こうした過剰なものの象徴として文字の発明と巨大建築物の建造を挙げています。

どちらも自己を誇示したり、正当化させたりするための手段としての側面が強く、生きるために絶対に必要だったとは言えないとしています。こうした自己顕示の背後には、過剰なものをたえず生み出さずにはいられない人の病、「拡大発展病」がひそんでいると指摘します。

この拡大発展病のルーツは、さかのぼっていけば、人をたらしめた脳の肥大化にほかなりません。

宗教の言葉を借りれば、脳が大きくなることで「業」が生まれたわけです。肉を食べるということは、食べなければ生きられなかった現実が背景にある以上、善悪で語れるものではありません。少なくとも、「体にいいかどうか? 」という点だけで評価できるものではないでしょう。

ただ、結果として、脳と腸の対立、そこからホンネとタテマエの対立が生まれたと言えるかもしれません。肉食によって進化を手に入れた私たちは、同時にこうした葛藤に向きあわなければならなくなったわけです。

現代人が イサゴール のような食物繊維がないと便秘がすすんでしまういきさつがわかったようなわからないような気がします。脳が拡大したことによるストレスの増大なのかもしれません。脳の拡大 → ストレス増大 → 脳への血流が増大 → 腸への血流が減少 → 便秘 といった感じでしょうか?

現代人の腸と昔の人の腸

体の声に素直に耳を傾ける

体の声に素直に耳を傾ける というのはどういうことでしょうか?そもそも、純粋に健康を考えた場合、現代社会でベジタリアンを続けることには少々問題があるでしょう。

たとえば、文部科学省が公表している食品成分標準表を比較すると、この50~60年の間に、野菜に含まれるビタミンやミネラルの量が軒並み減少しています。

体の声に素直に耳を傾ける

体の声に素直に耳を傾ける

日本人が大事にしてきたもの。それは「道」と呼ばれます。茶道、柔道、剣道、武道…などで使われる「道」のことで、外国人から見ると奇異な印象を受けるものでもあるようです。

たとえば、勝負事の世界でも、日本では「技を追求すること」や「礼儀作法」を、勝つこと以上に重視するところがあります。

それは自分自身の内面の欲求に従ったもので、簡単に言うと、「自分が納得できるかどうか? 」が基準になります。

いくら周囲に評価され、いい結果が出ていたとしても、自分が納得し、諒解しないかぎり気持ちが晴れず、後ろめたい思いすら湧いてくる。このモヤモヤを解消するためには、内面の欲求を満たし、頭のなかの思いを腸にまで落とす必要があります。

「腑に落ちる」という言葉があるように、アタマ(脳)からハラ(腸)へと思いを落とすことで・納得が生まれるのです。

そこから、「これで大丈夫だ」という自信が湧いてきて心が安定するのです。それが、古くから重視されてきた「腹を作る」ことの意味です。

食事を改善し、腸を元気にすることも、この感覚を養っていくことになると考えてみてください。それは、自分の能力を存分に発揮して、自分が満足できる生き方をする土台になると思いませんか?

それは、たんに健康のために肉食を控えればいいわけではなく、もっと視野を広げ、身体感覚に優れていた日本人の感性を「思い出す」手段としてとらえてほしいのです。

そもそも、純粋に健康を考えた場合、現代社会でベジタリアンを続けることには少々問題があるでしょう。

たとえば、文部科学省が公表している食品成分標準表を比較すると、この50~60年の間に、野菜に含まれるビタミンやミネラルの量が軒並み減少しています。微量栄養素が減っているということは、酵素の活性が低下して食材の生命力が落ちているということ。

有機栽培や無農薬栽培、自然栽培の野菜であっても、こうした生命力の低下がどこまで防げているかはわかりません。「産地直送の新鮮な食材」にしても、栽培環境も栽培法も様々であり、公的機関が認証しているからといって生命力が高いとまでは言えないでしょう。

たとえば、体にいいとされている 玄米菜食 を、1ヶ月ほど試してみても体の調子がいっこうに改善しないなら、どこかに問題があるということです。玄米 の質が思いのほか高くないのかもしれませんし、真面目に取り組むあまり、ストレスになってしまっているのかもしれません。最終的には何を食べるかよりも、どんな気持ちで食べるかのほうが、はるかに重要だからです。

「肉の摂りすぎは体に悪い」と言われる一方で、「肉類を多く食べたほうが長生きできる」というデータもあります。

高齢者だからといって肉を減らすことでむしろ短命になるというのですが、食べ物の質を考えたら、このデータも決して不思議なものではありません。こうした研究では、肉に含まれるタンパク質が重要だとよく説かれますが、このとらえ方がすべてではありません。

「植物の生命力が落ちてしまっている」ところに根本原因があると考えると、不足分を肉で補ってあげたほうが体にはプラスになるとも言えるからです。粗食(菜食)が悪いわけでも、肉食が悪いわけでもなく、体の声を開かずに「正しい食事」を続けようとするところに問題があるのではないでしょうか?

体の声を聞く。それは、「腸の声」を聞くということにほかなりません。難しく考えなくていいのです。お通じの回数、便の硬さやにおいを調べれば、おおよその傾向は見えてきます。

腸内腐敗を引き起こす悪玉菌 は、主にタンパク質をエサにしています。だから肉類の摂りすぎはマイナスとなりはしますが、こうした悪玉菌たちはストレスで増えることもわかっています。つまり、食事だけが問題なのではなく、ライフスタイルにも原因が隠されているということです。

それだけストレスフルな生活であり、しかもそのケアがうまくできていないということです。その意味では、肉食もそれ自体が悪いわけではなく、ストレスと結びつくことで腸内腐敗をうながす側面が強いだけと言えます。

肉類をガツガツと食べている時の心の状態が、ストレス解消の意味合いが強いものだとしたら、確かに体には良くありません。腸も喜んではいないでしょう。

昔の日本人 はそんな食べ方をしなくても、ずっと元気に過ごせていたのです。ライフスタイルの一部として食事の意味をとらえ直し、「肉を食べれば元気になれる」という発想をいったん保留にしてみる。そして代わりに、もっと植物や微生物の力を見直してみてはいかがでしょう。

そこに伝統的な日本食の価値も浮かび上がってきます。こうして食事の意味が柔軟にとらえられるようになれば、もう少し排他的でない、「ちょうどいい加減の菜食主義」が実践できるはずです。
まずは、習慣となってしまっている現代人特有の便秘を解消し、スッキリしたところで脳と腸の声に耳を傾けてみるのがいいでしょう。

昭和30年代の食習慣は腸にプラスになるか?

日本人は脳が発達しても 「 拡大発展病 」 にならなかった

日本という国が特徴的なのは、こうした拡大発展病にあまり雁患しなかった点にあります。
日本列島は大陸のほかの地域(たとえばメソポタミアやエジプト、中国など) と比べると農耕の開始がかなり遅れ、縄文時代という1万年にもおよぶ独自の狩猟採集社会が続いていました。

それはわざわざ農耕を営まなくても暮らしていけるほど豊かな自然環境が用意されていたからであって、かつての歴史学が語ってきたような「貧しかったから」「遅れていたから」というものではないでしょう。

いまから1万3000年ほど前、大陸から日本列島が切り離されて以降、四季がめぐりくる特有の気候風土が形成されていきました。

日本人は脳が発達しても 「 拡大発展病 」 にならなかった

日本人は脳が発達しても 「 拡大発展病 」 にならなかった

大陸からの寒流が対馬海流で温められて蒸発し、日本列島の山脈にぶつかることで豪雪地帯が生まれ、この雪から清流が生まれ、水が大地を潤すことでブナ林も広がってきました。

この過程でハンティングの対象だったナウマン象やオオノツジカなどは捕れなくなり、植物の貯蔵に適した土器が用いられるようになりました。

狩猟採集時代と言いながらも、狩猟にあまり依存しないですむ、かといって農業のような集団生産にも進んでいかない、自然とのつながりを土台にした半定住型の社会が築かれていたと思われます。

この恵まれた環境のなかで徐々に肉食の割合が減り、植物食へと回帰する傾向があったわけです。

こうした社会に稲作が導入されたのは、寒冷化によって主食にしていたクリやドングリなどが十分に採取できなくなったことなどが関係すると言われますが、ライフスタイルまで急に崩れ去ったわけではないでしょう。

むしろゆるやかに持続したまま稲作が始まり、遅まきながら「拡大発展病」にも雁患していったはずですが、この1万年の貯金が症状の悪化を抑制した面も強かったのではないでしょうか。

日本が「和」の社会と言われているのも、この貯金のたまものであるはずです。原始社会に見られる共同体感覚がほとんどそのまま農耕社会に持ち越されたため、社会が複雑化しても争いごとを好まない感覚が温存され、自分たちのアイデンティティにまで根づいていったと考えられるのです。

もちろん、その背景には食事の内容も関係しているはずです。これまで繰り返してきたように、生物は腸をベースにして生命活動を営んでいる存在です。

腸の感覚を優先する ことで心地よさが生まれるように私たちの体はできているわけです。

「和の民族」である日本人は、この2つをうまく操り、争いを未然に防ぐことに長たけています。それは起源の古い「腸」のほうに自分自身の土台があることをわかっていたからでしょう。なぜなら、頭でっかちの状態であるかぎり、相手のホンネを読み取って調和をはかることなどできないからです。

ところが近年、食事が変わり、腸の働きが低下してしまったことで、ホンネがうまく感じ取れなくなり、頭でっかちの人が増えてしまった。理屈ばかりで相手の感情がうまく感じ取れないのです。

禅宗のお坊さんが座禅に打ち込む意味も、こうした脳と腸の関係からひも解くと一気にわかってきます。すなわち、被らは座禅によって下半身をどっしりと安定させ、脳の過剰な働きから離れることで、脳と腸の葛藤を乗り越え、心身の調和をはかることを目指していると言えるのです。

自分は、本当は何を望んでいるか?そして何を望んでいないのか?理屈ではなく、腸(腹)で感じる。それは、体の中心に眠っている生物としての感覚を「思い出す」プロセスと考えてもいいでしょう。心地よいことも不快なことも、自分の気持ちはすべて腸の反応として現れます。

最近、ストレス性の下痢症状 ( 過敏性腸症候群 ) に悩む人が増えているのは、脳の働きに頼るあまり、腸で感じているホンネを抑圧してきた結果かもしれません。

過敏性腸症候群 は大腸に腫瘍や炎症など症状の原因となるような病気がないにも関わらず、おなかの調子が悪く痛みが続いたり、便秘や下痢などの症状が数ヵ月以上にわたって続く消化管の機能障害の疾患です。 排便することで楽になる腹痛と、下痢や便秘などの便通異常が主な症状です。 ストレスが症状を悪化させる要因の1つと考えられています。

これは、体の発するサインですから、決して悪いことではなく、体の中心に目を向けていくきっかけにもなります。過敏性腸症候群 が発するサインとみなければいけません。

ほんの少し視点を変えるだけで、「自分の望んでいること」はキャッチできるのです。

禅の世界で精進料理のような菜食が取り入れられているのも、腸の働きを安定させ、感情の乱れを最小限に抑えようとする意図からでしょう。

肉食から草食へと切り替えるのですから、より本質的な見方をするならば、「猿の時代に回帰する」とも言えるかもしれません。

人の「業」が肉食によって増幅したとするならば、「まずは猿まで戻って業を取り除き、生物としての感覚を思い出せ⊥ というわけです。「肉食を制限することで健康が得られる」というとらえ方だけでは、こうした意識とのつながりが見えてきません。

実際、菜食に徹したお坊さんが長生きしているとはかぎりません。彼らが求めているのは「憤り」であって、健康ではないのです。日本食についても ヘルシー であるということばかりに重きが置かれると、日本人が何を大事にしてきたのか? 肝心な点が見失われてしまうでしょう。