自然の摂理

頭で考えるのではなく体で感じる

頭で考えるのではなく体で感じる とはどいうことでしょうか?栄養学も自然科学ですから、まさに、自然からのいただきものです。物質を分析した形だけを見るものではありません。そこにお天道さまがある。分析によって知った今までわからなかった知識をもっと深く掘り下げたとき、そこにいのちがあるのです。

頭で考えるのではなく体で感じる

頭で考えるのではなく体で感じる

魚の骨でも骨せんべいにしてパリパリに油で揚げて食べる知恵は、お天道さまに申しわけない心が根となってあるからです。

捨ててしまうコマツナの根も、コンプや煮干しのだしがらもありがとうの心で、おいしく手品みたいに形をかえて食卓に踊り出る。これはけちで捨てないのではありません。「いのちにありがとう」の心がさせるのです。

このお天道さま思想は、端的で明快。さわやかな感触の鋭い民族の根を養いました。

ところが、今は挨拶にしても、おはようございます、いただきます、ご馳走さま、おやすみなさいと言葉にするだけで、肝心なことを伝えようとしないのです。何のためにするのかという、その根底となる心を教えない。よそへ行ったときに恥をかくから、親が笑われるから、世間体が悪いから、お里が知れるからと言って、肝心なことを伝えようとしない。心を伝えないから、スーツと入らなくて子どもも納得できないのです。

これでは、表面を気にして人のことが気になる人間になってしまう。立派になれと言っても縮んでしまいます。この頃、自然農法、有機農法が大事というと、箱だけそれらしくつくって、農薬をどっさり使っても有機農法無農薬で送り出したりします。

また、2001年9月10日に千葉県でBSEの疑いがある牛が発見されたと農林水産省が発表し、大騒ぎになった狂牛病問題では、うそつき食品が次々と現れました。心がないと、本当のことをしないのです。食べものも、栄養学で言う知識を覚えただけでやめないで、体に入ってどうなるのかを考えることです。

細胞と神経は心で働くのです。食物は、そのいのちを人間に与え、姿をかくして人間のいのちとなるのです。そしてかすとなって出てくる。それを浄化してくれるトイレにもありがとう。その「いのちにありがとう」を忘れると、理屈だけ言って、何で私だけトイレ掃除云々と不平不満の生活となってしまうのです。すべてのことはつながっているのです。そのつながりにまで想像をめぐらすことが大切なのです。

日本の 「 お天道さま 」 思想の重要性とは

日本人は 「 お天道さま 」 思想 という考えかたをします。例えば「食べものを捨てたらお天道さまに申しわけない」と言います。そのお天道さまって何でしょうか?」

「太陽と思っている人」と「太陽でなないと思っている人」が半数ずついるようです。

「 お天道さま 」 は、太陽に畏敬と親しみをこめて言う語です。 日輪。 特に神格化された太陽神として扱う場合に用いられます。

小さい頃に食べ物を残すと 「 お天道さま 」 に申し訳ないと言われたことがある人はたくさんいるかもしれません。

人の顔を見て、みんなはどうかなとみんなに合わせる。みんなで渡れば恐くない式で周囲を見るのです。

今はみんな便利で簡単でラクなほうが良い。損したくない。お金が大事で心をどこかに忘れてきてしまうのです。日本人は多くの人が「あの人がやっている」からいいだろうという考え方が根強くあります。比較をして少しでも優位にたつ方法を模索しています。

「 お天道さま 」 思想

「 お天道さま 」 思想

これまで、日本の教育の根底はお天道さま教育でした。道徳的な教育は人間形成に非常に大切なのです。人は迷いますからそんなとき、判断に迷ったとき、自分に都合のいい答えでなく 「 お天道さま 」が見ているという視点で考えるようにします。テストや偏差値で人間の価値を評価することも必要なのかもしれませんが、それが全てになってしまっては人間の心は育ちません。

お天道さまとは天道と書きます。例えば、昔の人は、お魚を食べるとき、このお魚もお天道さまのおかげと言って骨までしゃぶって、お茶につけて飲みました。無駄にしたらお天道さまに申しわけないという考え方です。

そうです。あの見える太陽の背後にあるもの、あの雲をつくり出しているその背後にある見えない偉大な力。つまり、人間の力のおよばない自然の力をお天道さまと言ったのです。

天とはあの青い空ではありません。あの空の背後にある力そのものです。天に恥じない心を大切にし、天に申しわけないと言ったのです。天とはそれです。

今は天と言えばあの青い空。地と言えば窒素、リン酸、カリウムの物質の土。土はいのちですがそれが見えないから、ああわかったわかったと、味もそっけもないのです。

こんな経験はありませんか?親に叱られた記憶です。友達が、お菓子をもっていて私に半分くれると言ったので、喜んで二人で木の根っ子に座って食べました。しかし、それはその子が親の財布から盗んだお金で買ったお菓子でした。それがばれて親に叱られた友達は、理由を聞かれたときに、私が食べたいと言ったからと答えたのです。

母は、私を叱りました。私が「もらったのだ」と言っても信じてくれなかったのです。一生懸命違うと言い張ると、「うそまで言うのか」と叱られ、子ども心にももうそれ以上説明のしようもなく、悲しくて泣きながら外に出て、じっと天を仰いで空を見ました。

そして「お天道さま、わかってるよね」と、涙をボロボロ流しました。「そうだ! お天道さまが見てる。わかってる。もういいや」と、心で受けとめて納得し、泣くのをやめました。また、何かのときに「うそを言う」と叱られたとき、「お母さんはいつもお天道さまが見てる、知ってるって言ったでしょう。

お母さんがわからなくてもいい、お天道さまが知ってるもの! 」とすごい勢いで言ったら、母がびっくりして「わかった」と言いました。これがお天道さま教育であり、よく言う「おかげさま」の心です。

おかげさま 相手の助力があったことを感謝する表現。 「おかげ」をさらに丁寧にした表現で、多く「おかげさまで」の形で用いる。 また、漠然と、身辺の状況が良いことについて感謝を表明する際にも言いますね。

今の学校教育でも、家庭教育でもこのお天道さま思想が失われ、「人間をこえた大きな力があるんだ」ということを子どもに教えません。そこに教育の限界があると私は思います。この大きな力を知るとき、枠も垣根もなく、広く深く生きられるようになるのです。それを先祖達は端的に伝え残してくれました。これは日本にしかない大変な遺産です。

テストでいい点をとる、地元の進学校に通う、お友達よりいい点をとるといった教育にはかならず後にしっぺ返しがまっているでしょう。そして子供達もその違和感に気づき始めているのです。

天知る、地知る、我知る、人知る なども似たような意味ですが、昔の方々の子育てには、きっと重要なポイントだったのでしょう。
道徳的なことを伝える生活の中での教えのような気がします。人として生まれて人の中で生きていく中で重要です。

自然の摂理

生かされている意味 感覚で感じ取る

生かされている意味 感覚で感じ取ることはとても大切な感覚です。健康になりたい、幸せになりたいと、願うのは誰も一緒です「ではその幸せ健康は根ですか? それとも出てきた枝葉ですか? 」とたずねると、誰もが「根です」と答えます。

生かされている意味

生かされている意味

大事なのは根っこ、根っこが育たなければ葉や花は育たない

しかし、これは根ではなく葉なのです。健康や幸せや自由や平和といった、人間が願うことがらは見えないいのちです。根から実って現象として出てきているのですから、枝葉です。この当たり前のことなのに多くの人はびっくりしています。

健康も幸せも不幸も病気も、枝に実った実なのです。この辺からすでに考えかたが違って、健康という願いばかり追いかけて根を枯らすから、不健康の実りばかり出てきてしまうのです。

体の健康ばかり追いかけても、毎日の生活が健康的でなければ実現しません。その生活とは先にもふれましたが、衣、食、住、人間関係です。

ですから願いばかり先行しても、健康体に導く生活ができていなければ、願いとは裏腹な心のようにしか出てこないのです。生活を健康にしようと思うなら、心を健康にしなくては難しいのです。

心の健康とは、どう生きるか、どう考えるかです。それによって行動が違ってくるのです。食についても、いのちの尊さがわからなければ一時しのぎの三日坊主で終わります。朝の目覚めもおはようの挨拶も、この、いのちへの感謝の心があるかないか、生きてるのか、生かされているのかでまるで違ってくるのです。

何度もくり返しますが、心臓も肺も自分が動かしてはいないのです。これは自然の働きです。太陽を照らし雨を降らせ、土をうるおす、いのちあふれる自然の恵みをありがたくいただくのか、頭だけ、理屈だけで食べるのか。それが「いただきます。ご馳走さま」に表現されます。

日々の挨拶は生活の基礎、心の基礎、人間関係にまでつながります。住居にしても畳は酸素を出し、木や紙は生きて呼吸して、湿気の多い日本の風土に合うのは木造建築です。しかし、国土が狭いので今は鉄筋が多くなっています。そのため換気に気をつけ、自然をとりいれる工夫をするのも大切なことです。そんな日々の生活の健康が基礎となって、心を養います。それによって幸せも健康も育ち、運命の健康へと運ばれてゆくのです。

地球上のどんな生き物にも天敵がいますが、人間には天敵がいません。ただ「人間の心の中に天敵がいる」と言った人がいます。「貪・瞋・痴」です。つまり、貪り・怒り・愚痴が人間の天敵だということです。戦争をして人間は殺し合いをします。その時、心の中には「貪・瞋・痴」が渦巻いています。この天敵「貪・瞋・痴」の真逆が「感謝」です。

人間は誰もが、自分で生きているのではなく、生かされているのです。そして、生かされていることに感謝をする時、そこに報恩の気持ちが芽生え、〝社会や人に対して、何かしなければ〟という気持ちになり、人間は支え合って生きていけるのです。

私達が一番感謝すべきことは〝生かされている〟ということです。繰り返しますが、私達は生きているのではなく、生かされているのです。


生かされている意味さがし 旬感エッセイ [ 松谷範行 ]

商品説明
内容紹介(「BOOK」データベースより)

自分の意思によって綴られていくべき人生…。しかし、計り知れない、あるいは及ばない何か大きな力に導かれたり翻弄されて、時として“生かされている”人生を歩かなければならないこともある。その時々の心の置き所が人生を大きく変えていく…。
目次(「BOOK」データベースより)

正しい仕事の仕方のうそ・ほんと/生き方の考察ー「生きる」を見つめ直す/道徳を忘れてしまった日本人/神様・仏様に感謝する日々/日本の社会・日本の会社/今どき対人関係は大切ですぞ!/報道に翻弄されてはいませんか?/季節や花鳥風月を味わう/雑学と雑感の披瀝です/「自分」と言うロジックを解く/わが最愛なる家族/おまけの余談(老いる時間の中で)
著者情報(「BOOK」データベースより)

松谷範行(マツヤノリユキ)
1956年生まれ。地元の市役所に勤務し、市町村合併や行政改革、中心市街地の再開発プロジェクトを担当。56歳で早期退職し、鋼材の卸売業を営む会社に転職。現在、取締役管理本部長(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

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